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建物の紹介

愛国婦人会
愛国婦人会創立の沿革

1901年(明治34年)奥村五百子女史が東京で、戦地から帰還した傷痍軍人及び戦死した人の遺族の世話、保護を主旨とする『愛国婦人会』を創立し、そのメンバーはほとんどが皇族などの上流階級の夫人で組成された。

1904年(明治37年)、台湾の台北、台中、台南にそれぞれ愛国婦人会支部が設置された。当地の徳望家、名望家の夫人をメンバーにして、社会公益活動に従事した。初期には全島での防蕃、討蕃事件での負傷者の救護と救済を対象にした。資金の來源は募金の外に政府当局の支援も受け入れ、また原住民の製品の交換事業も営んでいた。1908年10月に《台湾愛国婦人》という機関誌を発行した。1910年には纏足廃除運動に尽力し、その後台北庁に私立女史職業学校を設立して、女性に適切な職業教育を施し、彼女達に日常生活で必要な知識と技能を伝授した。

この会では各項の社会公益事業を進める外に、「活動写真部」も設けた。 1909年に高松豊次郎と合作して。台北で活動写真上映会を挙行し、救護基金を募集した。放映した映画は歴史劇、家庭、武士道等の二十数種類。第一回上映の成績が良かったことから、毎年一回挙行することを決定。並びに台北、台南の両方の地に活動写真班を一組ずつ固定的に設置し、上映するフィルムは多くが日本内地のものを購入した。上映活動以外に当会では原住民の部落へ派遣して日本人の討伐実況を撮影したこともある。1916年に、民衆との利益争いを避けるために当会の活動写真部を廃止し、所蔵していた19種類のフィルムを台湾教育会へ寄贈した。

1933年に「愛国婦人会台湾本部」に昇格し、1942年愛国婦女会ともう一つの国防婦女会が合併して「大日本婦人会」となる。戦後当会は国民政府に接収された。

愛国婦人会会館建物 愛国婦人会会館一階展示エリア 愛国婦人会会館二階和室区
最終取引時間:2020-12-08 午後 04:57:02
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